ぶつかった相手は美鶴を睨み、一度は無言でその場を去った。だが、何を思ったか戻ってきて、美鶴と向かい合う。
「ぶつかって悪かったな」
腰に手を当て、大して悪いとも思っていないのだろうに、それでも相手の男子生徒はわざわざ廊下を戻ってくる。そうして美鶴が何かを言う前に再び背を向け去っていった。
悪かったなんて、これっぽっちも思ってないだろう。
美鶴は心内で吐き、その慣れない対応を鼻で笑った。
本当に、こんな態度は慣れていない。ぶつかったくらいでわざわざ詫びられるなど、今までにはまったくと言ってよいほどなかった。
なぜならば美鶴はこの唐渓高校において、低俗と言われる部類に属する生徒だからだ。家柄の良い裕福な子女の通う学校内において、片親で、しかも母親は水商売ときている。冷遇はされても優遇はされない。
今までだって、たとえこちらに非はなくとも廊下でぶつかってしまえば、邪魔だの一言くらいは浴びせられた。ひどい時などは、制服が汚れるから皆が歩いている時には廊下に出てくるななどとも言われた。
それが、今ではこのようにわざわざ詫びを口にする輩まで出現している。
なぜか。
理由を考えると、美鶴は頭に少し重みを感じる。思わず額に手を当てたところに、背後からの声。
「ねえ、大迫さん」
甘ったるい声。うんざりと振り返る先で、やはり甘い瞳で媚びるように視線を投げてくる女子生徒と目が合ってしまった。
「何?」
「ちょっとお願いがあるのですけれど」
「私に叶えられるお願いなんてあるのか? そっちの方が金持ってんだから、私に叶えられる願いなら自分で叶えられるだろ?」
嫌味のような言い草に相手の女子生徒はピクリと額に青筋を立てる。だがグッと堪え、できるだけ声音を和らげるようにゆっくりと口を開いた。
「今週末に私の父が主催する晩餐会がございますの。そちらに山脇くんをお誘いしたくて、大迫さんからお声を掛けていただけません?」
「そんなの自分でしてよ」
「あらぁ、私が声をお掛けしても山脇くんはなかなか聞いてくださらなくって。ほら山脇くん、何かとお忙しい方でしょう? 声をお掛けするのも大変で。でもあなたの言葉なら、山脇くんは聞いてくださるはずですわ。だから―――」
相手の言葉を最後まで聞く事なく、美鶴は背を向け歩き出した。
「あっ ちょっと」
呼び声も無視で教室へ逃げ込む。
ウザい。
瑠駆真はもともと校内でも人気の高い生徒ではあったが、その高さはここ最近で急激に上昇した。その理由を考えると、美鶴は再び頭に重みを感じる。
そんな美鶴に聞こえぬよう、ボソボソと囁く背後の声。
「だから言ったじゃないの。あんなのに頼んでも無駄だって」
「ホント。よりによって、何で山脇くんはあんなのに入れ込んでるわけ?」
聞こえてるって。
美鶴は歩きながら軽く額を押さえる。
まさか、本当だったなんて。
美鶴の自宅謹慎が解除された理由だって、瑠駆真の存在あっての事だと聞く。
別に頼んだワケでもないのに。
彫りの深い、黒く円らな瞳を思い浮かべ、美鶴はうんざりと席に腰をおろした。
昨日の放課後にも同じような目にあった。振り切るのにたっぷり三十分はかかった。おかげで下校が遅れた。
今日は勘弁して欲しいな。
机に頬杖をついていると、予鈴が鳴った。先生が入ってくる。次は現代文だ。担当は担任の阿部。なにやらプリントを配り始めたが、どうやら授業の内容とは関係なさそうだ。
ホームルームを兼ねるなよ。
ぼんやりと窓の外へ視線を移す。
今日は、遅くなるわけにはいかない。こちらから呼び出しておいて待たせてしまっては失礼だ。
秋らしさ全開の爽やかな空に、薄色の髪が跳ねた。細く切れた瞳が浮かぶ。
「美鶴もさ、少しは自分の気持ちを出してみなよ」
対岸の街に降り注ぐ陽射しに目を細めたのは一ヶ月ほど前。あの日以来よく考える。自分はどうしたいのかと。
明確な答えは出ていない。今だって、気持ちなんて全然固まっていない。
だけど、こうする事が、自分の気持ちに反している行動だとは、思えない。
対岸に渡りたいと必死にもがくツバサの姿を、無様だと笑うべきだ。そう言い聞かせながら、でもやっぱり、ツバサの涙を綺麗だと思ってしまったのは事実だ。
また後悔するのだろうか。
ぼんやりとため息をつく美鶴の元にも、プリントが配られてきた。
それは本当にわずか。だが緩は眉根を寄せ、隣の席を睨みつける。
「ちょっと」
声を掛けられ、昼食を楽しんでいた同級生がキョトンと反応する?
「何か?」
「これ」
憮然とした言い草と共に突き出された腕を、女子生徒は凝視する。
「え? 何?」
「何? じゃないわよ。あなたの手に持つパックから飛び散ったじゃない」
確かに、少女の手にはフルーツドリンクのパック。周囲の他の女子生徒も身を乗り出す。
「どこ? どこ?」
緩の突き出す右腕を覗き込む。相手の態度が呆けているように見えて、緩はさらに視線を険しくさせた。
「わからないの? まったく」
軽蔑したような口調に、少女の一人がムッと顔をあげる。
「なによ、その態度」
だが緩は、そんな相手に顎をあげた。
「そちらこそ何よ。人の制服を汚しておいて、その態度はどうかしら?」
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